日々ノート

映画、インテリア、音楽についてなど、好きなものについてをのんびりと。一人と一匹の同居人との毎日の生活をつづります。

こいびと/ ぼくのエリ 崖の上のポニョ



みなさまこんにちは。
今日は以前見た映画について思いつくままに感じたことを書いていこうと思います。

まずひとつめは

あらすじは下記にwikipediaより引用致します。

ストーリー

ストックホルム郊外に住む12歳の少年オスカーは母子家庭でどこにも居場所がない。オカルトや猟奇事件に興味津々で犯罪関係の本ばかり読み漁っている。学校ではクライメイトから執拗なイジメを受けており、仕返しする勇気も持てないままポケットにナイフを忍ばせ、妄想の中で復讐にふけるばかりだった。大好きな父親は同性愛に目覚めて家を出てしまい、一人きりになりたいときは雪の積もるマンションの中庭で過ごしていた。

ある日、隣の部屋に親子連れが引っ越してくる。そして、オスカーは夜の中庭でミステリアスな雰囲気を持つ「エリ」と知り合う。エリは学校にも行かず、孤独がちだった。二人は自然に惹かれ合っていく。

その頃から、オスカーの家の周囲で殺人事件が相次ぐ。被害者は逆さ吊りにされ血を抜かれていた。また、ある男性は深夜に友人が女の子に襲われ、その後行方不明になるのを窓から目撃していた。

オスカーへのイジメは次第にエスカレートしていた。エリはやり返すようにオスカーを後押しする。オスカーは自分を鍛えるためトレーニングに通うようになる。また、二人はいつでも連絡が取り合えるようモールス信号を勉強するのだった。

ある晩、エリの父親は若者の襲撃に失敗する。彼はエリの本当の親ではなく、殺人を犯してエリのために血液を集めていたのだ。彼は身元を分からなくするため用意した硫酸を自ら浴びる。逮捕され病院に収容された彼はエリの前で命を絶つ。それはエリにとって破滅へのカウントダウンが始まったことを意味していた。

一方、スケートの課外授業で凍る湖に入るよう命令されたオスカーはイジメっ子にやりかえす。親には怒られたがオスカーはそのことに自信を深め、エリに告白する。自分が普通ではないと言うエリに対しオスカーは「今まで通りならいい」と告げる。二人は同じベッドで一夜を過ごすが、朝になるとエリは謎の置き手紙を残して消えていた。

その後、オスカーはエリの知られざる秘密を知ってしまうのだった・・・

(引用終わり)


いわゆる吸血鬼映画に分類されます。

ただ、一般的に見慣れたそのジャンルの映画のようなファンタジックさはなく、日常のなかに非日常がゆるやかに食い込んで侵食していくような、その非日常に心の隙間を満たされた少年が攫われてしまうとも言えるような

不安定さと綺麗さが同居した作品であるという印象でした。

日本版タイトルには「少女」と冠してありますが、原作について調べてみると、エリは「少女」ではなく、また「少年」でもないことがわかります。

(劇中でもワンカットで示されるシーンがあります)

不満と不安に覆われたオスカーの日常に、突然舞い降りた非日常のエリ

二人の間にたしかに痛々しく見えるような純粋な絆は生まれ、結果オスカーはエリと生きていくことを選びますが、

未来に明るい光があるようにはやっぱり感じられず、死んでいった偽のエリの父親と同じ運命を辿るオスカーの姿を想像せずにはいられませんでした。

禍々しさがありながら、その禍々しい行いの根底にあるものがお互いを慕う気持ちであるという部分に強く惹かれざるを得ないストーリーです。


真っ白な雪景色、クライマックスシーンのプールのなかの陰惨でありながら解放的なシーン

ラストの列車のシーンなど、こころに強く残る印象的な映画でした。


人間以外と恋に落ちる映画で、似た印象を受けた映画がもう一本あります。

崖の上のポニョです。


こちらも、かわいらしくパッケージされていますが、海から来た異形の女の子が、恋した男の子をその男の子の属する世界ごと攫ってしまおうとした話だと解釈しています。

非日常であるポニョが宗介の日常に食い込んでいき、そして海の荒波という形で、彼の世界=街ごと覆い尽くして飲み込んでいきます。

その根底にあるのはやっぱり、純粋なお互いを慕う気持ちや恋心です。

ですが、ポニョのラストシーンにも、わたしはあまり明るい未来を想像することはできませんでした。

恋が恋ともわからないかもしれない二人が大人になったとき…一体どうなってしまうのか

そんな風に思わずにいられませんでした。

二作品の主役の二人に、境遇に共通点があること

(父親の影が薄い家庭で、母と二人で過ごしていること)

そして二作品とも主役のパートナーとなる存在が中間的な存在ということ

(少女でも少年でもないエリ、魚と人間の間のポニョ)

その点も面白いなあと感じています。


一般的とはいえないパートナーを選ぼうとする二作品の主人公を見つめる時、そこにある種の「大人の視線」があることに気付かされます。

普通でない誰かと歩むことは、普通でない道を進む事

人と違うことをやるのはそれなりにきついことで、幸せは約束されない

という一点からの常識という視線を注いでいる自分がいました。

ある意味純粋に彼らの関係を見つめれないから、彼ら未来を明るいものと捉えられなかったのかもしれません。

大人でいることは難しくこわいこととも思います。



ところで、オスカーを演じたカーレ・ヘーデブラントさん

わたしの中では、デスノートのメロにイメージがぴったりすぎて

とてもどきどきした覚えがあります。

(こちらの作品は、連載、アニメ放映中からL派でニアメロファンでした。)

抱えた危うさや容姿含めて、

デスノートの実写に外国人を起用するとしたらオスカーを演じた彼に、メロを演じてもらいたいくらいだと勝手に思ってしまいました。

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実写ドラマ化で再び話題のデスノートですが、こちらはあまり期待できないな…と感じています。
漫画からの実写化自体は抵抗が少なく、映画もとても楽しめたのですが、
今回についてはキャラクターの改悪が気になってしまいます。

主人公、夜神月を平凡な大学生に変更したのは、天才であるLとの対比を強めるためという狙いがあるとのことですが
Lと月の対比は天才と平凡でなくとも成り立つと考えています。

そもそも、キャラクターとして、
一見したイメージでの変人と常識人
相対的正義と主観的正義
というように、容姿や役割においても対比があったように思われるライバル同士のキャラクターでしたので、敢えて変更することもないのでは…と思います。

Lについては奇行部分を削るということで、その独特のマスコット性が失われたようにも思えてしまいます。

実際放送を見てみたら、また印象は違うのかもしれませんが…


実写映画についてはいずれ別記事で触れられたらと思います。


今回はなぜか結びがデスノートの話題となってしまいました。
いつもとりとめのない記事ですが、最後までお読み頂きありがとうございます。

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